ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

あしあと

    あきる野市の沿革と市名の由来

    • [公開日:]
    • [更新日:]
    • ID:291

    あきる野市の沿革

    縄文時代から江戸時代まで

    あきる野には、豊かな水と自然の中に早くから文化がひらけ、縄文時代から古墳時代の考古学研究史に残る遺跡が多く発掘されています。
    阿伎留神社は、平安時代の「日本三代実録」と「延喜式」に記載されている古い神社です。また、大悲願寺の「木造伝阿弥陀如来及脇侍千手観世音菩薩・勢至菩薩坐像」もこの時代の終わりごろに作られたと考えられています。
    武蔵国は代表的な馬の産地で、四つの勅使牧の一つ小川牧は、小川郷(秋川・平井川流域)を中心にした牧でした。
    鎌倉時代、この地域は秋留郷と呼ばれ、武蔵七党のうち西党に属する小川氏、二宮氏、小宮氏、平山氏などが鎌倉幕府の御家人として活躍していました。また、室町時代になると、武蔵総社六所宮随一の大社である二宮神社は、小川大明神と呼ばれていました。
    戦国時代の終わりごろからは、伊奈と五日市に「市」が開かれ、炭などが盛んに取引されました。江戸時代になると木材は、秋川・多摩川を筏で流し江戸に送っていました。江戸時代末期には炭の年産が20万俵、筏は3000枚を数えました。このほか、絹糸を泥染めした黒八丈は、柔らかく深い艶のあることから帯や着物の衿などに珍重され、別名「五日市」と呼ばれました。
    江戸時代の集落は、秋川・平井川の段丘面や草花丘陵縁辺などに点在し、現在もその多くが市域の字名として残る32か村となって明治時代に至っています。

    明治から現代へ行政区画の変遷

    • 明治初年 … 韮山県・品川県などに所属する。
    • 明治5年 … 全村神奈川県の管轄となる。
    • 明治12年 … 神奈川県西多摩郡に所属し、五日市村が五日市町となる。
    • 明治22年 … 市制町村制が施行、東秋留村・西秋留村・増戸村・明治村・三ッ里村・小宮村が誕生、小中野村が五日市町に合併する。
    • 明治26年 … 多摩地域が神奈川県から東京府に移管となる。
    • 大正7年 … 三ッ里村・明治村が五日市町に合併する。
    • 大正10年 … 多西村が誕生する。
    • 昭和30年 … 町村合併促進法により、東秋留村・西秋留村・多西村が合併し秋多町が誕生、増戸村・五日市町・戸倉村・小宮村が合併し新しい五日市町が誕生する。
    • 昭和46年 … 秋多町に八王子市高月町切欠を編入する。
    • 昭和47年 … 秋多町を市制施行し秋川市が誕生する。
    • 平成元年 … 秋川市草花の一部を福生市へ編入する。
    • 平成7年 … 秋川市と五日市町が合併しあきる野市が誕生する。

    「あきる野市」誕生

    市名(あきる野市)の由来

    古来、この地域は秋留郷に属し、旧五日市町にある古社も阿伎留神社と呼ばれていました。
    また、秋川流域4か市町村最初の共同事業の公立阿伎留医療センターや、この地域の中心に広がり、地域発展の受け皿として期待されている平坦部を秋留台地と呼ぶなど「あきる」の名称は親しまれてきました。
    ここに、21世紀に向けて、新市にふさわしい名称として、

    • 地域一帯の呼び名であり、歴史があること
    • 未来へ発展する期待がこめられていること
    • ひらがなにすることにより、親しみやすいこと
    • 緑豊かな自然や中心部である秋留台地をイメージできること

    等の理由により「あきる」の末尾に「野」を加え、多摩川を境に東の平野の「武蔵野」に対し、西の平野をあきる野とし、新市の名称を「あきる野市」としたものです。

    お問い合わせ

    あきる野市役所企画政策部企画政策課

    電話: 内線2211、2212

    ファクス: 042-558-1113

    電話番号のかけ間違いにご注意ください!

    お問い合わせフォーム


    ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます